スポンサーリンク
200px-Winning_Ticket_20070422P1



私が社会人になったばかりころ好きだった馬について書きます。


柴田政人J悲願のダービー制覇、そのときの直線での気迫にウイニングチケットは応えました。



生い立ち・戦績


1990年3月21日生まれ、栗東 伊藤雄二厩舎に入厩

 
父トニービン 母パワフルレディ 母の父マルゼンスキー


生涯戦績 14戦6勝 獲得賞金 3億7177万4000円


uininngutikextuto
※wikipediaより転載


1992年9月函館競馬場でデビュー。新馬戦は5着


次走の同開催の新馬戦、続く葉牡丹賞、ホープフルステークスを3連勝し
一躍クラッシックの有力馬になる。


4歳春、皐月賞トライアルの弥生賞に出走し、後の皐月賞馬ナリタタイシン以下をおさえて優勝。


1番人気の皐月賞では直線伸びきれずナリタタイシンの追い込みに屈し2馬身差で敗れた。


1993年皐月賞
          




皐月賞で敗戦を喫したもの、日本ダービーでは再び1番人気に支持された。


レースは終始中段を進み、4コーナーで5番手にあがり直線では柴田政人Jの渾身のムチに応え
内で粘るビワハヤヒデ、外から追い込んできたナリタタイシンらを振り切り優勝。
柴田政人J悲願のダービージョッキーに。


勝利騎手インタビューでは有名なセリフを言いました。

「世界のホースマンに60回のダービーを勝った柴田ですと伝えたい」と語りました。



1993年日本ダービー
         




本来はこれで終わるような馬ではない



4歳秋、夏を無事に過ごし、迎えた秋初戦は菊花賞トライアル京都新聞杯で勝利。


続く菊花賞ではトライアルを勝っているものの、ビワハヤヒデに続く2番人気。
レースでも折り合いを欠きビワハヤヒデから5馬身差の3着に敗れた。



1993年菊花賞
        




続くジャパンカップではレガシーワールドの3着。続く有馬記念は折り合いを欠き直線伸びきれず11着大敗。



【5歳】 
   
5歳になったウイニングチケットは菊花賞のレース内容から距離適性等を考慮し、天皇賞(春)には出走せず米遠征が計画されるも体調が思わしくなく取りやめる。


6月の宝塚記念まで休養することになりました。


しかし、予定していた宝塚記念には間に合わず、復帰戦は高松宮杯(当時GⅡ中京芝2000m)
までずれ込んだ。落馬負傷の主戦柴田政人Jに替わり柴田善臣Jが騎乗。1番人気ながら5着に敗れた。



続くオールカマーでは武豊Jを鞍上に迎え、その年の天皇賞(春)と宝塚記念を連勝したビワハヤヒデと対戦し1馬身3/4差で敗れる。


次走は天皇賞(秋)に挑戦したが、レース中に屈腱炎を発症し8着に敗れ翌日に引退。
東京競馬場で引退式が行われ種牡馬生活に入った。


落馬事故で負傷した柴田政人Jも懸命のリハビリの甲斐もなくその1ヶ月前に引退。
28年にも及んだ騎手生活にピリオドを打った。      


1994年天皇賞(秋)
           





引退後



静内スタリオンステーションで種牡馬となった。


産駒成績は中央重賞勝利は1勝のみ。


2005年種牡馬を引退し去勢手術を受けて騸馬として余勢を送っている。



当時、「3強対決」としてビワハヤヒデ、ナリタタイシンとともに盛り上げてくれましたが、
やはり1番印象に残っているのが日本ダービーです。


後の河内洋Jの悲願のダービー制覇は柴田政人Jにダブって見えました。


以上です。







スポンサーリンク